dialogue, human and polyphony

「対話」や「人」についての気づき

感覚と偶然性、頭脳と計画性

先日友人が主催する「鎌倉リトリート」というプログラムに参加してきた。
それは、感覚が開く体験を久しぶりに感じることができた二日間だった。
 
このプログラムは、
「森でひとりで過ごすこと」と「みんなで対話すること」が繰り返されるシンプルなものである。
森のリトリートを提供している株式会社森へに対する敬意、そして東京の人が気軽に森の中で内省できる機会をつくりたいという二つの想いからうまれたプログラムだ。
 
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森に入り始めた時、
「カサカサ」と急にする音や「ブーン」と虫が通る音に対して、かなり敏感にビクッと反応している自分がいた
それは予想だにしない外部からくる刺激に対して、過剰に警戒心を示しいる心の状態のあらわれであったように思える。
 
けれども4時間、5時間と森に入っていると、だんだんとそういったことが気にならなくなる。
虫がすぐそばを通ったとしても、近くで物音がしようとも、穏やかにその存在を認知する自分があらわれはじめる。
「あぁ、そこに蚊がいるんだな」
「あぁ、左後ろの方で動物が動いているんだな、リスかな」
といったように。
閉じていた感覚がだんだんと開いていき、感じとれる世界がだんだんと広がっていくような体験である。
 
この体験を経て気づいたことは、
日常の中では「どれだけ世界をシャットアウトしながら効率的に生きようとしていたのか」ということであった
 
特にこの一ヶ月間はやることの量がとにかく多かった
そのため限りある時間の中ですべてのことを終わらせるために、無意識に合理性や計画性、効率性などを大切にして過ごしていた。
こういった行動論理によって無事こなせたこともある一方で、日々の味わいはまずまずで、人とつながる感じも希薄になっていた感覚は確かにあった。
 
そうすると、
相手の感じていることを汲み取りきれなかったり、
あんまり心が動かない味気ない体験が増えてきてしまっていた。 
 
気づいたら今回森に入り始めた時に感じたような、
ペースを乱すような不確定要素や予想外の刺激に対しては拒否する自分
が育っていたのだった。
 
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まとめると今回の森における体験は、
頭を使って合理性や計画性、効率性などを重視していると、予想外の刺激や些細な質感を無意味なものとして拒否し、だんだんと味気なくなってしまう
ことの気づきだった。
 
そして裏を返すと、
日々が味わい深く、発見に満ち溢れたものになるためには世界に対する感覚をひらいて過ごすことが大切だ
ということに改めて気づいた。
 
今回森をはじめとした自然は、自分の感覚を開くために最適な手助けになってくれたのであった。