dialogue, human and polyphony

「対話」や「人」についての気づき

禅とコーチングの重なり

「禅」と「コーチング」は、どちらも「自己の可能性を思考という枠組みを超えて迫ろうとする」という点において重なりを見出せる。まずコーチングは、その人自身の思考との関係性を結い直すことによって可能性に向かう活力をもたらす。そして、禅も「内観」や「瞑想」といった自己との向き合い方を通じて、自己という存在の本性に至ろうとする。

例えば「禅」が目的としているところを、鈴木大拙は『禅(ちくま文庫)』においてこのように述べている。

 

禅は、要するに、自己の存在の本性を見ぬく術であって、それは束縛から自由への道を指し示す。われわれ有限の存在は、つねにこの世の中でさまざまの束縛に苦しんでいるが、禅は、われわれに生命の泉からじかに水を飲むことを教えて、われわれを一切の束縛から解放する。あるいは、禅は、われわれ一人ひとりに本来そなわっているすべての力を解き放つのだということもできる。この力は普通の状況では、押えられ歪められて、十分な働きを発揮する道を見出し得ないでいる。p41

 

この「束縛から自由への道」というものが、自らの制約条件となっている「思考」だと考えることができる。「思考」は、これまでの経験と学習の蓄積によってうまれている常識や意見である。そういった常識や意見が、気づくと自分のことを縛っていることがある。そのため、「禅」においては瞑想や内観を通じて、自らの内側にあらわれている「思考(念)」をただ観察するための訓練をする。そして、観察をしているとその「思考(念)」は、無常であることに気づく。そして、無常であるからこそ、そこに縛られる必要はないことに気づき、自らの制約条件となっている「思考」から解き放たれるのである。この意識の動きについては、天台小止観においてわかりやすく説明されている(円覚寺居士林だより - 止観双運』参照)

 

歩きながら足が上がる下がるのその動きをよく観察する。さらに、呼吸の出入りの様子を観察をする。これは、心を観察するための準備でもある。足の動きの方が大きな動きですから観察しやすい。さらに微かな呼吸の様子を観察し、そして、さらに、自分の心の様子を観察する。いろいろな念というものは、確かに浮かんでくる。それは、止むことはない。しかし、浮かんでは消えていく様子をただ、客観的にずっと観察をしていく。すると、念や思いに引き込まれてしまわないように、あくまでも冷静に観察をし続けていけば、それらは、どの様な念であろうと、一瞬のうちに生じては滅すを繰り返しているだけで、何ら実体のない、いわゆる無常であるとわかる。無常であるから、とらわれるものでないということが観察をすることで見えてくる。- 天台小止観

 

コーチングは、これをコーチと呼ばれる伴走者との対話によって行う。コーチが、相手自身の鏡となることで、相手の内外で起こっていることに関する気づきをもたらす。そして、どんな考え方がどんな内面の体験と外面の現実を起こしているのかに気づいていくプロセスを通じて、自らの「思考」から解き放たれることが可能となるのである。

それでは「思考」という制約条件から解き放たれた場合、その自己の動きはどこに向かうのであろうか。これを説明する概念は様々なものがあるだろう。例えば、以前ブログで引用した河合隼雄は、人と対面する際にこのような態度で向き合っている。

 

「それが、僕がいまいっている、僕がやりたがってることなんですよ。その人を本当に動かしている根本の「魂」-これと僕は勝負している。こういう気持ちです」p162

 

ここでいう「魂」、つまりは「その人を本当に動かしている根本の何か」。これが思考を超えた先にある人の活力なのではないだろうか。ここまでくると目に見えないものであるがゆえに、説得的に捉えることが難しくなってくる。しかし、自身の経験を振り返ると、自分の中からふつふつと湧いていくる意欲や活力、直感などは確かに存在すると体験的には感じる。

 

こういったこと考えているとコーチングはこれまでの「目標達成を支援する手法」に止まらないものとなる。おそらく、西洋的パラダイムから捉えたコーチングと、東洋的パラダイムから捉えたコーチングが違う機能として存在するのだろう。ここをわかりやすく、かつ対等に分類すること。それが、いまある関心の一つでもある。